====== MUSER ライブハウス インタビュー ======
スポットライトのあたるステージの裏側の世界。 ライブハウスを運営しているスタッフの方へのインタビューを通して、 この世界に飛び込んだきっかけや、考えていることなどを紹介していきます。 お店の顔が見えてくると、そこで繰り広げられる音楽の世界がより面白くなるような気がしませんか?
第11回は、中目黒楽屋のオーナー増茂光夫さんにインタビュー!
■ 本日はよろしくお願いします。
まずはライブハウス業界に入ったこれまでのご自身の経緯を伺わせてください。
出身は栃木です。
小さな町で生まれ育ちました。市民会館とかでしかコンサートが見られないくらい小さな町です。中学からギターで弾き語りを始めました。フォーク世代なので井上陽水などの影響は受けていて。中学、高校から洋楽も好きになって、いつか音楽関係の仕事に就きたいなと思っていました。大学で東京に出てきて、コンサートのアルバイトを見つけて。大学時代はジャズ漬けの生活をしていたんですけど、その頃貸しレコード屋が流行っていて。そこに毎日通ってひたすらジャズレコードを聴きまくって、カセットにコピーして、レコードライナーとか見ながら楽しんでいましたね。
そんな生活をしている中で、よみうりランドに Live Under the Skyっていうジャズフェスがあったんです。当時日本のジャズフェスでは一番規模の大きいフェスで、元々は大田区でやってたんだけど近隣の苦情でできなくなって、そこからよみうりランドに移ったんですよ。そこのアルバイトに最初から入れたんです。小田急線の向ヶ丘遊園に住んでいてたまたま近かったので。そこの裏方でスピーカーやミキサー運んだり、会場設営したり、清水舞台というところのアルバイトに入って。
Live Under the Skyって世界トップのアーティスト達が来て演奏して、2、3日間くらいだったんですけど、それが楽しくてね。目の前でマイルス・デイビスやらソニーロリンズやら、そういう人たちを見られた経験っていうのが、僕の音楽に対する情熱ができたきっかけだと思っています。

大学卒業になってソニーとかビクターとか音楽会社も受けたんだけど、全部落ちちゃって。どうしようかと思って、出版社に一度入りました。出版系も興味があったので。でも配属されたのが電算関係でね。当時活版印刷からデジタルに変わっていく過渡期で、そのシステムを作るコンピューター関係の仕事だったんですよ。それはそれでやったら面白かったんだけど、2年くらいやってこれ一生やっていくのかな、と思った瞬間に嫌になったんだよね。それで辞めてプー太郎してる間にたまたまブルーノート東京が青山にできるというフロムエーを見て、これだと思って受けたんです。代表の方と同い年で、面接で「うちらで日本のジャズを変えよう」と言って固い握手をして、そのまま採用してもらいました。そこで採用してもらったのが僕の人生の転換でした。それが1988年の11月。
オープンの時はホールをやりながらPAをやってました。何ヶ月間かしていくうちにそれは続けられないということになって、PA1本にしてもらいました。音響専門学校ではないし、アルバイトでレコーディングスタジオを少しかじった経験はありましたけど、人前で何かするスキルなんて何もなかったので、ブルーノートの現場で学んだという感じですね。

僕ら音響の立場から作る音とミュージシャンから受ける音って全く違って。ミュージシャンの要求ってまた違うじゃないですか。それを具現化するっていうか、ましてや世界トップの人たちが来ていて、一緒に来るエンジニアも結構いて。そういう人達を間近で見て勉強させてもらったっていうのが一番大きいかな。当時はインターネットもないしPAのことを勉強しようと思っていろんな本買って読んだりもしたけど、数字の羅列とかを見ても訳分からないし、それよりも実際に耳を鍛えたりしてたね。
中でもジョンマクラフリンっていうギタリストに付いてきたドイツのエンジニアがすごかった。アナライザーという機械を使って、すごく良いマイクを客席の真ん中において、ホワイトノイズで測定した上で音を最初にきちっと作っていて。この人たちはプロだなと思いましたね。ああいうのを間近で見れたのが良かったな。
僕はそういう機械は持ってなかったので、とりあえず耳を鍛えようと思って、自分の声だったり主になる音源を使って、スピーカーのチューニングをできるようにしましたね。あの経験は僕にとって音作りのベースになっていると思います。レイブラウンっていうベースの巨匠が来た時も、ステージからちょっと来いと言われてウッドベースから10cmの所に耳を当てられて、「覚えたか、この音をそのまま出せ」と言われたんです。そういうのがすごく勉強になりました。こんな経験なかなかできないしね。そうやって勉強していったかな。

ブルーノートにいる時に本場のジャズ聴きたいと思って、一人で何度もニューヨークに行き、いろんなジャズクラブをまわりました。町中に生の演奏が溢れていて、昼からカフェで無料で演奏していたりするんですよ。それがすごくいいなと思って。それに憧れて僕もそういうのできないかなってちょっと思ってたんですよね。
ブルーノートでずっと仕事しているのも良かったんだけど、それだけだとなんか面白くないっていうか、自分の人生一度きりなんでね。日本にも普通に安く生演奏を聴けるような環境ができないかなと思っていました。そんな時たまたま中目黒で知り合いの友達に不動産屋さんがいて、こんな物件あるんだけど、という話をきっかけに1996年に楽屋をオープンしたんです。今年で26年目ですね。
最初は実は僕が料理の方もやってみようかなと思って、知り合いのレストランで修行させてもらっていました。だけど料理の注文が入っちゃうと友達が来ても全然接客できなくて、お客さんの半分くらいが僕の知り合いだったので、これじゃ申し訳ないなと思って。ブルーノートで一緒に働いてたやつが手伝ってやるって言ってくれたので、料理の方は任せて接客の方に回ったんです。
最初の店はここではなくて、ここから30秒くらいの斜向かいにある小さな店でした。ここの半分くらいのサイズで、ピアノもアップライトピアノで。30人入らないくらいの規模でした。最初は週末だけライブをやるつもりで始めたんだけど、そのうちアーティストからバースデーライブやらせてとか、だんだん平日も増えていって、しまいにはほぼ毎日のようにライブをやってたかな。お客さんがパンパンに入っちゃうと料理も飲み物も出せなくて、裏口から表にまわったりとかお客さん同士で隣の人に渡してもらったりとか、ある意味面白い店だったんですよ(笑)。
それで2003年の12月にこっちに引っ越してきたんです。実はこのビルのオーナーがうちの嫁のお父さんでね。前の店をオープンしたての頃にカミさんが遊びに来て。それから常連さんになって仲良くなって1998年の2月に結婚しました。カミさんのお父さんがケーキ屋さんだったんですけど、もう年だし後継ぎがいないので締めようという話になって、じゃあ僕にやらせてくださいと言ってここをライブハウスに改装したんですよ。それが2003年の12月でした。
お店を出した時の2軒隣くらいに日焼けサロンがあったんですけど、そこのマスターがオープンした次の日くらいに面白そうだって入ってきてくれて、色々話してたら実は EXILE のUSAのお父さんでね。その関係もあってUSAパパがよくDJ やったり、売れる前の EXILEが5、6人で来てレモンサワーばっかり飲んだりしてたね(笑) 一晩で100杯くらい(笑)

■コロナ禍ではどのように過ごしていましたか?
コロナになる前、2016年に11月に神保町にお店をオープンしたんですよ。何とか2、3年目で少しずつ良くなってきてよしこれからかな、という時にコロナが現れて。2店舗それぞれで社員を雇っていたんでどうしようかって悩んだんだけど、スタッフとも相談して1店舗に集中して存続した方がいいかなと思ってあっちを閉めたんです。1年もしないうちに収まるだろうと思ってたからここまで引っ張るとは思わなかったね…。
本当に厳しい世の中だよね。ここは社員が3人いるんですけど、今は時間短縮もあるので彼らの労働時間を確保するために僕はなるべく外には出ない形でやっていますね。それでも規定の労働時間が足りなくいくらいです。
もっとブッキングを頑張りたい所でもあるんだけど、結構みんな二の足踏んでる感じはあるからね。僕自身はコンサートの音響やレコーディングなど外の仕事もやっているので、そっちの収入をもう少し確保したいなというのがありますね。
去年の12月は本当に忙しかったんですけどね。文化庁の補助金の制度があって、一気にミュージシャンからコンサートホールの依頼が集中して、10本近くホールの仕事をやったかな。今までであんな忙しかった月は無かったくらい。ミュージシャンも必死だからね。
■配信についてはどう対応していましたか?
2020年の3月くらいから4、5月にかけて3ヶ月間完全に緊急事態になってしまいましたよね。あの時どうしようかと思っている矢先に、配信に詳しい友達がいて、それやるしかないっていう話になって。それはもう手探りでみんなで「スイッチャーって何?それないとできないらしいぞ」みたいな感じで。ネットで探しても品切れで、たまたま見つけた業者に電話して1台だけ残っていたのでそれを買いました。でも素人だし訳が分からないままいろんなことを手探りでやってましたね。ひどい状態でスタートしました。でも回線を増やしたらある程度落ち着きました。今は5カメでやってます。
うちのすごいところは一人でなんでもやるっていうところ。基本3人で回しているんですよ。PAと配信と照明を一人が担当。もう一人はドリンクとホール担当。社員はどっちもこなせる。僕もそうだけど、そういう風に皆で作り上げたんでね。ちゃんとそれで休憩も回せます。お客さんに呼ばれた時にバーでドリンク作ってる人間が配信の方に来てスイッチしたりとかね。
最初は僕も音響やって照明やって配信って一人じゃ無理だと思ったんだけど、だんだんやっていくうちに慣れてきたんだよね。人間やればできるもんだなっていうのは思ってきた。 うちくらいの規模のライブハウスで照明さんを雇うとかってできないんですよ、実際。だから何かしら兼任でやってもらうしかないんです。うちだけじゃなくて同じようなことやってる店はたくさんあると思うけどね。
配信は、YouTubeの楽屋チャンネルでのライブ配信、あとツイキャスとかお金をもらってやりたい人も増えているのでそういうのでやったり、アーティストの要望に合わせています。でも最近はなにかスペシャルなことがない限りは減ってはきているかな。うちはPeatixを使ってるんだけど、手数料は当然取られるし、投げ銭もあんまり集まらないんでね。最初の方の山はもう来ないだろうね。
新曲が出たとか、 CD発売しますとか、バースデーとか、特別な理由付けがないとお客さんも配信は1回見たらもういいかなみたいな感じの印象は受けてるね。数ヶ月前はライブの80%は配信だったけど最近は配信率は下がってきていますね。リアルに来てくれるお客さんのためにやりたいという雰囲気があるね。
どうしてもうちみたいなジャズ系、アコースティック系の箱はリアルなライブを見たいっていう人が多いんで、どっちかって言うと配信見るよりは実際のライブ見に行こうというお客さんが多いのかなという感じはしますね。ジャズ系のお客さんって年齢層も高いので、今これだけ感染者が増えてる中で集客的に厳しいのはあるけど。
■今後の展望はどう考えていますか?
僕は去年の秋に60歳になったんですよ。会社員だったら退職の年だけど自営業だから存続は出来るんだけどね。僕の田舎にライブハウスを作れないかなってずっと構想はあって。栃木市っていうところなんだけど、人口は8万くらいで当然ライブハウスはないし、カラオケ屋がいくつかあるくらいでね。ただ学園都市と言うか、学校はたくさんあるのね。やっぱり若い人たちに音楽を表現する場所、練習する場所を作ってあげたいなっていう気持ちがあって。僕も田舎に年老いた母親がいるので月1くらいで様子を見に行っているんだけど、どうせなら田舎にライブができるスペースを作りたいなって思っていて。
地元の人にも Facebookの就職支援とかコミュニティでライブハウスやりたいんだけど誰か一緒にやらない?ってあげたりもしてるんだけど、反応がいまいちなんですよ。だったら自分で動かないとだめかな、と思って。地元の雰囲気のいいカフェとかもあるんで、そういう人たちと話をしてみたいなとはちょっと思ってます。若い人たちの力を借りないとね。ライブハウスっていう形で作っちゃうと自分がそこにいないといけない状況になってしまうので、僕の場合外の仕事もあるから完全に任せられる感じで引き継ぎたいなと思っています。
神保町店を潰したおかげで一通り機材は持ってるんですよ。それを実家の倉庫に全部入れてるんで、それを眠らしておくのももったいないし、何か活用できないかなっていうのもあって。だったらそういうのを使ってくれる若い人たちに提供してあげたいなと思ってます。ここの姉妹店ではなく、プロデュース的な立場でいいかなと思ってます。
■おすすめのアーティスト・イベント、
ここで何度も一緒にやってるcode “M” っていう音楽集団がいて、そのリーダーのMAKIさんっていう人がいるんだけど、その人が主催しているイベントもも素晴らしいね。基本はジャズなんだけど洋楽器と和楽器をミックスしていて、琴や尺八、三味線が入ったりしたところにサックスも入ったり、面白いこといっぱいやってる人たちです。

おすすめのメニュー
最初の段階から日本一ライブハウスでメシがうまいんじゃないって言われるくらいご飯が美味しいんですよ。王様のブランチで中目ナンバーワンになったりね。看板メニューはタイカレーとベトナム麺です。いわゆるタイブームってあったじゃない?それが来る直前にうちは目をつけていました。
最初の店では多国籍料理というか無国籍料理というか。何でもありという感じで、和も洋も中華系もいろんなものを作ってたんだけど、とっ散らかっちゃってて収拾がつかない感じだったので、だったら絞って美味しいものを作ろうということで、みんなの意見がまとまって。それでタイとかベトナムとかそっち系の料理を研究して開発して出したのが評判になったんです。

ランチをやっていた頃は1日70人とか来るくらい、ランチだけでめちゃくちゃ忙しいお店でした。でもランチだけで料理人2人入れてホールに3人、合計5人で回してたんだよね。でも料理人の一人が田舎に帰ることになって、一旦お休みすることになったんですね。それ以来ランチは遠ざかっちゃったんですけどね。