2022.03.17
ライブハウスインタビュー

「バンド活動で築き上げたフレンドシップが原点」渋谷eggman 鞘師至さんインタビュー

====== MUSER ライブハウス インタビュー ======

スポットライトのあたるステージの裏側の世界。 ライブハウスを運営しているスタッフの方へのインタビューを通して、 この世界に飛び込んだきっかけや、考えていることなどを紹介していきます。 お店の顔が見えてくると、そこで繰り広げられる音楽の世界がより面白くなるような気がしませんか? 今回は、渋谷eggmanの店長 鞘師至さんにインタビュー!


こんにちは。今日はよろしくお願いします。

まずは、鞘師さんのご出身や、音楽との出会いのところから聞かせてください。

地元は神奈川の田舎で漁師町なんですけど、小さな頃は、釣りするか、海に泳ぎに行くか、隣の空き地で虫捕まえるか、みたいなそんな感じの生活でした。

一般的なサラリーマンの家で楽器もなかったので、ソプラノリコーダーでファイナルファンタジーの音楽を耳コピして、学校から帰って二つ上の兄に聴かせて自慢していました。

そういう意味で、音楽との出会いはゲームミュージックから始まっています(笑)

中学校に珍しくバンド部があって、その頃から今もずっとギターをやっています。

(*現在もエクストリーム・ブラック・メタルバンド“COHOL”のg/voで活躍中)

本当は一番かっこいいし動きもすごいから、ドラムが良かったんです。ドラムが圧倒的にかっこいいと思ったし、周りの子供たちからも一番人気だったんです。一番人気のものは競争率が高いし、僕より上手い人がいるだろうと思って2番手のギターを選びました。なのに世の中に出てみたらギタリストが一番多かったっていう(笑)

リコーダーでファイナルファンタジーの耳コピから始まって、ギターをやるようになって、その後の音楽との関わりはどういう感じでしたか?

初めてライブハウスに行ったのは高校の時でしたね。バンド部の先輩が横浜FADに出ていて、それを観に行った時です。そこからハマって週3くらいで学校を早めに抜け出して電車に乗って行ってました。リハから観に行って、「オープンだから一回出てください」って言われた後にスタッフのふりして中に入ったり(笑)

でも、そこで頂いたパッションのおかげでいまだに音楽を続けているんで、そういう意味で言うと絶対バレてたのに追い出さなかったFADのお陰でもありますね。あと、横須賀のかぼちゃ屋もよく行っていました。神奈川県の三浦半島の隅っこに住んでいたんですけど、渋谷とか高円寺にもよく観に行っていました。

高校に入ってからもバンドをする仲間を探していて、軽音部で出会ったやつ(*COHOLのHiromasa)と今だにバンドを組んでるんですよ。彼はベースボーカルです。

洋楽思考の同級生が唯一そいつだったんですよ。そこでウマがあって20年以上一緒にやっています。高校を卒業する頃には軸となる音楽性が二人の中で固まってきていました。卒業後もしっかりとバンド活動を続けたいから、彼と僕でそれぞれ別の場所でメンバーを探そうと思いました。

高校卒業後はHiromasaさんとは別々の道に進んでいくのですね。鞘師さんはどういうことを考えて次のステージに行ったのですか?

バンドを続けることが一番で、音楽の仕事をするという風には全く思っていなかったです。

教員になろうと思って大学に行きました。教職過程を取り終わって卒業する前に、大学の先生から「非常勤で話があるからお前にしたいと思うんだけどどう?」と言われ、当たり前のように受け入れる気でいたんですが、教育実習で母校の中学に行って子供に教えていると、100%コミットしないと許されない仕事だっていう気持ちがすごく強くなりました。バンドをやりながらでは無理だと思ったんです。

どっちかを諦めるしかない。どうしよう、どっちもやりたい、と。最終的にバンドをとったんですよ。僕の保証された人生はそこで終わって、先生に謝りに行きました。

バンドを取ったからには、バンドを優先できるけど仕事も続けられるような人生設計をしないといけないと考えました。ただギリギリで教職を蹴っちゃったのでバイトをするしかなくて。知り合いのミュージシャンから、当時、二子玉川にあったピンクノイズというライブハウスがスタッフを募集していることを聞き、選択肢がなかったのでそこに辿り着きました。

「バンドを続けることを一番の軸」にしたら、音楽の仕事に辿り着いたのですね。eggmanに移ってどのタイミングで店長になったのですか?

ピンクノイズは一年半くらいで辞めてeggmanに移ったのが23歳の時で、もう16年くらいになります。店長になったのはいつか覚えていないんですよ(笑)店長をやってほしいと言われて無理だと思うと一度断ってそのままズルズルとだったのでいつ店長になったのかはっきりとは覚えていません。店長って、自分がバンド活動している中で出会ってきた経験上、すごく嫌いな人種だったんですよ(笑)

アーティストが芸術をやる場所なのに、店長が偉そうにしているのがすごく嫌でした。自分が店長と言うのも嫌だったし、店長になってから数年間は店長と言ってないし、自分で認めていなかったんですよ。

eggmanの店長をやることになった後も、色々と葛藤もあったのですね。

鞘師さんの中でどうやってクリアにして行ったのですか?

ビジネスを掛け算した時に、納得するようなコンテンツを生むのがなかなかハードルが高かったですね。今までのeggmanの仕事の中でも、特に若い頃はアーティストを裏切っちゃったな、と今でも思うこともたくさんあります。上から言われたことをやらないといけないがためにアーティストに酷い対応しなきゃいけなかったりとか。向こうにノーと言うこととか、ハードルをかけることとかは、悪いことではないようにするやり方もできるはずなんですけど、それ以上の価値を彼らに与えられるような仕事を僕ができていなかったら成立しないから、そういう意味では僕にもっと力が必要だったんですね。

そんなことが数年でできるはずもなく、最初は苦しみました。

感謝されるような仕事が少しずつできるようになった時に、アーティストの人達にもありがたがられるような仕事ができるんであれば、そういうポジションもいいなってようやく思えるようになって。そこから名刺にも書くようになりました。多分それが30歳手前くらいでしたかね。自分のやっていることを、自分の与えられたポジションと、自分に対しての周りからの評価っていうのがマッチするポイントがようやく見えたんですね。

コロナ禍でのLIVE配信は早くから取り組んでいらっしゃいました。

どういう心境だったか振り返っていただけますか?

必要であれば何でもやるというのは昔からあったんです。うちの社長が新しいことに挑戦することに対してパッションが強いんですよ。そういった部分に対して昔から兄貴だと思っているし、リスペクトしています。

35周年の時に武道館でライブ行ったりとか、今回の配信のこともゼロから立ち上げて機材買ってコンサルのスタッフが講習をやったり。やった方がいいものがあれば、そこにどんなタスクがあったとしてもやろうとする気持ちは昔からあると思います。

配信に関しても、外に頼むと高いから、機材投資して自社でできたら良いなと思いました。ノウハウとか積み上がるまでは、人件費払えばいいくらいでやれば絶対やれると思ったんです。コロナが始まった頃はずっと家でキャンセルのやり取りばっかりしてる時期があったんで、このままだと精神的にもみんな病んでいくし、現場を動かしていかないと、と思いました。スタッフみんなで取り組める、To Doを作る必要性というのも優先順位が高くて。売り上げを出すのもそうですけど、みんなで一緒に進める課題作りという意味でも良いなと思ったんですよね。

最後に今後の展望などお聞かせください。

eggmanは今年の2月までが40周年期間で、期間中に40本記念公演をやっているところです。昔と比べて、来てくれるお客さんとか使ってくれてる人に自分が与えられるものができてきたと思うんで、それを増やしていきたいと思ってます。みんなが Happyになるようなプロジェクトをできるだけ多く増やしていきたいです。自分のバンドをやっている時のメインセオリーなんですけど、僕らの音楽ってメインストリームではなくてカウンターカルチャーなので、芸術面がビジネスに殺されない物っていうのをずっとこだわってるんです。eggmanでもそれをやりたいんですよ。細かいこと考えなくてもビジネスとしてもちゃんと成立するようなものを、芸術面のカラーで色濃く出して成功できるようにしたい、というのが一番大きいですね。

音楽業界にいる限りは、僕は今の社長には育ててもらっていると思っているのでここで全うするのみですね。

【eggman HP】

http://eggman.jp/

【Twitterアカウント】

https://twitter.com/shibuya_eggman